TOPメディア掲載>『文蔵4月号』(一部抜粋)

文蔵(PHP研究所)http://www.php.co.jp/bunzo/

2009年4月号掲載(本体476円(税別)) 文蔵 2009.4

【逆風(アゲインスト)の人々】
平山 譲


一、

自宅のソファに凭れたまま、じっと宙を見守るような時間をもてるようになったのは、澤田 司さんにとって、ここ最近のことである。

十代でバスケットボールに出会い、二十代でその指導者になり、三十、四十、五十代、そして還暦を過ぎてもなお、「バスケバカ」を自任してコートにとどまりつづけてきた。

今年で六十五歳になるが、三年前までは、自身が標榜した戦術「ラン&ガン」同様、走り続け、攻め続けるような人生を送ってきた。

バスケットボールを始めた当初の身長は百五十五センチと小柄で、その球技には不向きなはずであった。だが、中学時代に連日三百本以上のシュート練習でレギュラーになると夢中になった。

大学卒業後、体育教師として赴任した東洋大学付属牛久高校で指導者に就任。わずか三年で同校を関東大会出場常連校に育てると、その手腕を買われて実業団のマツダオート東京(のちのアンフィニ東京)の監督に抜擢。創設から一年十一ヶ月で関東リーグ九部から日本リーグ二部への昇格最速記録を樹立した。

アメリカへコーチ留学し、日本オリンピック委員会の強化コーチ、所沢ブロンコス(現埼玉ブロンコス)監督、埼玉栄高校監督を歴任した。

還暦を迎え、埼玉栄高校を定年後も、コートから離れなかった。  
 
  単身赴任先の埼玉県さいたま市から、家族が住んでいた茨城県牛久市へ戻り、地域に根付いたクラブチーム、NPO茨城ロングホーンを発足。
  プロリーグのbjリーグ加盟を目標に、子供たちの指導や競技普及にも尽力してきた。
 
  しかし、どんなに強く結びついた縁にも、出会いがあれば、別れもある。
 
  澤田さんと、バスケットボール。
  その関係にも、終わりがおとずれようとしていた。
 

  茨城ロングホーンの練習中、澤田さんは突然倒れた。<引用終了>
 
   

本書は2009年4月17日発行です。現在、転載の許可の確認中です。続きは、是非、ご購入の上、ご購読ください。